大谷翔平、極度の負けず嫌いは幼少期から

大谷翔平の幼少期から、高校時代に至るまで、ともに時間を共有した佐々木さんはじめ、当時の恩師やチームメイトの証言をもとに、原点をたどる。共通する、回想録は、大谷翔平の幼少期からの過度な負けず嫌いエピソードがあがっている。とにかく、負けることが大嫌いな大谷で、年上の子らに、負けても、勝つまでやめようとしない大谷。そんな負けず嫌い伝説から、プロに至るまでのエピソードを振り返る。

幼馴染で野球選手の 佐々木さんが話す大谷翔平

大谷の2学年上で幼馴染の佐々木大樹さん。現在も社会人野球(日本製鉄室蘭シャークス)で活躍。

お互いの母親が同じバトミントンチームだったこともあり、幼少期から、野球はもとより、バトミントン、水泳等
花巻東時代は、佐々木さんが3年生の時、大谷が1年生で、野球部の寮生活では同部屋。

翔平との出会いは、佐々木さんが5歳、大谷が3歳の頃。
母親のバトミントンの練習が終わるのを待つ間。
他の子供らも交えて、ドッチボール、鬼ごっこ、かくれんぼ、サッカーとなんでもやった。

とにかく負けず嫌いで、年上の子とケンカになることも

みんなで遊んでいても、負けると、もういっかい!と食い下がるのが常、やめようとしない。
ある時、皆で缶蹴りをして遊んでいたところ、大谷と年上の子が取っ組み合いのケンカに・・
皆で止めるも

なんでも、缶にタッチしたか、しないかで揉めていた。とにかく、悔しさをおさえきれなかったようです。

水沢リトル浅利監督が当時の大谷翔平を回想する

小学生に上がって佐々木さんは地元の水沢リトルに入団、大谷も小学2年生の時に後を追うように入団した。

佐々木さんが言うには、とにかく、身体能力がずば抜けていた。
球が速いのはもちろんだが、入った頃から特にバッティングが圧巻。飛距離がすごい。

河川敷での練習だったが、大谷が打つ打球が飛び過ぎて川へ入ってしまうので、引っ張り禁止令が出ることに・・

水沢リトルの浅利監督は当時の大谷を振り返る
少年時代の大谷が所属していた水沢リトルの浅利代表は少年たちに練習環境を提供するには十分な資金が必要と考えており
様々な方法で資金を調達し野球場はもちろん特にボールを潤沢に用意していた

しかし大谷がチームに入ってからボールを次々と紛失してしまうことになってしまった・・

翔平はバッティング練習で川が流れているライト方向の障害にボールを軽々と飛ばしてしてしまうんだ

最初は大谷のパワーを感心しながら見ていた浅利監督。
しかし、おろしたてのニューボールが次々と川に飛び込む
水沢リトルは硬球を使用しているので、川に落ちると水を含んで重くなり使い物にならなくなる

折角作られたネットも
川の手前に植えられた大谷翔平特設ネットを設置するも効果なし

苦肉の策で大谷への引っ張り禁止令
全部左方向への指示

これにより、逆方向にもガンガンと強烈な打球を打ち放った
少年の頃より、既に広角打法をマスターしていた。

引っ張って強い打球を打つ選手は少なくないが、逆方向にガンガン強打できる選手は貴重。

前述の引っ張り禁止令もそうだが、投手としての大谷も規格外。
「6年生にもなると、キャッチャーが大谷の球を捕れない。ストレートはびっくりするような速さだし。
スライダーはすごい角度で曲がるので、マスクをしてるのに、顔はアザだらけに・・。地元の社会人の
キャッチャーが試しに捕球しようとし、捕りそこねて悶絶したことも・・」

ゲームより野球が大事という大谷

また、ある時の合宿時に、浅利監督が、子供たちにゲームは持ってっるのか?と問うと、大谷を除く全員が手を挙げた。
翔平だけは、野球の方が好きですからと答えた。これには、この子は、上手くなると感嘆した浅利監督。

趣味が野球と言い切る大谷の姿勢は、少年時代から一貫して変わっていないのに驚かされました。

監督「上を目指してるっていうか、誰にも負けたくないっていうか。
それってセンスですよね。
うまい子はいっぱいいるんですが、そこで止まるっていうか。
もう自分はうまいからこれ以上練習しなくていいよっていうふうになりがちなところで、さらにとにかく上を目指していくって言う。
そこが違ったのかなって思ってます」

大谷の投げる球を泣きながら捕球していたキャッチャー

水沢リトルを卒業して、次に一関リトルシニアに入団した大谷。
当時の監督、千葉博美さんが証言する。
当時から、バッティングは教科書にしてもいいようなキレイなスイング。しかし、投手としては
レベルが違い過ぎて、キャッチャー泣かせ。
特に、変化球の曲がりが凄まじく、泣きながら捕球。千葉監督自身も、一度、打席に立つ機会があった。

しかし、あまりの、速さと曲がりに際どいところは、避けきれないので、二度と打席に立たないと思ったよう。
そんな、千葉監督の大谷への印象は、とにかく、何でも真剣にやる負けず嫌いなところ。

そんな、一方で、大谷がキャプテンだった時の合宿で、ミーティングの時間を勘違いして入浴していて、慌てて試合にスパイクを忘れて
行き、お母さんが買いに行ったことも・・

そういう面もあったりで周囲に愛された。家庭環境も素晴らしかった。

大谷の両親が証言する、父が翔平を怒ったのはたった一度だけ

いかにして、大谷翔平は育ってきたのか、家庭内の両親に証言によれば、末っ子である翔平を叱った記憶がほとんどない。

大谷家では、上のお兄ちゃんとは、年が離れているのもあり、きょうだいげんかは、翔平と2歳違いの姉と。

幼い頃は、姉弟で他愛ないことで、しょっちゅうケンカするも、怒ってもどっちも悪いじゃないかという感じで、翔平が
何か悪いことをしたから叱ったということがない。

翔平が唯一怒られたのは、幼少期の頃の一度だけ

両親の記憶によれば、幼稚園か小学校に上がったばかりの頃、当時流行していたハリーポッターのお気に入りのグッズ、
ハリーッポッターのノートに、買ったときから少し剝がれている箇所があり、翔平が気になるので、自身で色を塗ったりするも、
思い通りにいかずに、珍しくなきわめいてしまった。

その時に、父が「そんな小さな事で怒るんじゃない!」と
父親の徹さんが翔平に対して声を荒げたのは後にも先にも他にはなかった。

しかも、当の大谷翔平本人は、唯一怒られた幼少期の大谷家の事件を全く覚えていないと母親の加代子さんは笑ってこたえてくれた。

幼少期に、絵本などでも、お気に入りの本の端っこが、少しでも折れてると「誰が折ったんだ!」みたいになることもありました。
翔平が感情をむき出しにして怒るとしたら、自分が大事にしていたもの、持っていたものが傷ついたり、壊れたりするとき。
でも、それぐらいでしたね。両親が怒らなければという状況が本当になかった。

さらに、中学生になっても、野球のグランド以外で父から怒られたこともなく、
中学生なら当然にある、反抗期もなかったと加代子さんは言った。

「反抗期という反抗期はなかったような気がします。訳もなく反抗したり、態度が悪かったということは特になかったと思います。
それは、翔平だけでなく、子供たち三人ともにそうでした。それぞれが自分の部屋にこもることもありませんでした。

特別に家族みんなが、ものすごく仲がいいというわけではないんですよ。家にはテレビが一台しかなかったので、何となく、
みんなが同じ場所に集まって一緒にテレビを見る。本音を言えば、子供部屋にテレビを一台ずつ置く余裕もなかったですし、みんなで一緒に
同じ時期を過ごしたいと私は思っていたので、テレビは一台にしたところはありましたけどね」

大谷翔平の全力プレーは怠慢走塁がキッカケだった

幼馴染の佐々木さんが印象に残った、翔平の場面。佐々木さんが3年で、翔平が1年の夏。
岩手県大会初戦の花泉戦でのこと、翔平は4番スタメンで出場し凡打した時のこと。

試合自体はコールド勝ち。しかし、凡打した時の全力疾走をしなかった大谷に監督が激怒。
『試合に出られない先輩たちがいるのに、怠慢なプレーは何だ!』。
翔平はかなり落ち込んでいましたが、その後は一切、手を抜かず全力でプレー。チームメートの信頼も厚い。大谷の全力プレーの精神は花巻東1年時に培われた。

クソガキと呼ばれていた日本ハム時代

18歳のルーキーとして北海道日本ハムファイターズに入団した大谷。千葉県鎌ヶ谷市にあるファームの施設。 そこで過ごした日々には大谷の違う一面を知るエピソードがたくさんある。

現在の大谷のイメージと言えば、爽やか、ストイック、優等生。そんなイメージとは異なり、チーム内では親し みを込めて「クソガキ」と呼ばれていた。

大谷と同い年だった宇佐美塁大氏は大谷とはよく映画を見たと語る。 「映画を見たあと、翔平は映画の中のセ リフをずっと言ってきて。もうええって!っていうくらい。」

9歳年上の新垣勇人氏は、大谷とよくゲームをプレイしたという。

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「翔平は負けると、もう1回!って。 今のは ナシでしょ、電波が悪かった!」


とかいろいろ理由をつけて。 野球以外も、本当に負けず嫌いでしたね

最年少で軍に定着しても、大谷はあっという間に年上の選手に溶け込んだ。自然体で飾らない 素顔がチーム内でも受け入れられた。新垣氏は語る。

「仲良くなってきてからは、甲高い声で『ガッキーー!」って 呼んできたり、突然指で胸を突くちょっかいを出してきたり。

どんどん生意気になってきましたね。 クソガキだ けど本当に可愛い存在です」 大谷の素顔は愛すべきいたずらっ子だったのである。

新人は孤立したり、先輩に囲 まれて緊張し過ぎて持ち味が出せなくなりがちだが、大谷は“クソガキ”キャラで先輩らに可愛がってもらえた。

大谷自身も「冗談半分でもそう言ってもらえると、こっちも親しい感じで近づけますしね」と悪びれた感じもはく爽やか。

とにかく適応力が半端ない。